about・ぶんの前身ブログです。こちらが本店、あちらが支店のつもりです。(笑)


by bp2004

カテゴリ:In my opinion( 64 )

2 核家族考

私は核家族という言葉が新語として登場した世代である。かっこいい感じを覚えた。もう死語らしいけど、ナウいって感じだった。アメリカは皆そうなのだと聞いた。

こちらに来てみると、確かにメーンはそうだけど、そうとも限らない。それに核家族と言っても、ちょっと日本とは違うなと思った。日本の場合は核家族というと、その家族だけ、その単位だけの感じがする。他から切り離された独自の単位。

田舎の方に行けば、まだ核家族すら一般的でないのかもしれない。東京で生まれて育った人間の感覚で言っているのだけど、極端に言うと、日本の核家族というのは、自分達の殻を作ってこもっている単位のような感じがする。私だけの感じかも知れないけど。

こちらに来て感じるのは、核家族というのは、あくまで核である。それを中心として、広がりを持つ。核はむき出しで孤立した存在ではない。核を中心として親戚があり、友人があり、コミュニティがある。そうしてそういう核を中心として集まる。公園でのバーベキュー・パーティ、家庭でのパーティと頻繁に交流がある。

日本よりはるかに大きい国で、ちょっと会うのも飛行機、あるいは車で途中何泊もしてというような事も珍しくない。勿論、近場にたくさん親戚が居るというのも珍しくないけど、一般論で言えば会おうと思うと、日本より遥かに大変な感じがする。

それでも、日本の親戚より、はるかに頻繁に集まっている感じを受ける。親戚、友人を含めたパーティも頻繁にある。そして、すごく集まりにくく散らばっている遠い親戚にも呼びかけた2、3年おきのリユニオンもよく聞く。そういう時は親戚だけで軽く4、50人集まる。100人近いのもある。場所は皆と相談の上、皆に取って一番集まりやすい観光地でのホテル、モーテル、キャンプ場と色々だ。

会える頻度によって1泊から、滅多に全員集まれないと1週間位という大々的なのもあり、色々あるけど、何世代もが集まって、色々な遊びをしたり、一緒に観光したり、食事したり、ちょっとした同窓会の楽しさだ。それぞれの核家族が順番に当番で企画を決めているという。

アメリカの核家族は孤立した単位ではない。中心にして集まる為の核である。核になるという事はそういう事ではなかったろうか?中心の点だけなら、核ではない。ただの点家族だ。日本に核家族という概念が導入された時、何か大事なものを忘れて導入してしまったのではないか、という気がしてならない。
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by bp2004 | 2005-05-30 04:45 | In my opinion

4 行為の選択

行為の選択という言葉がある。でも、あまり一つ一つの行為が選択なのだという認識って無い気がする。偉そうに言っている自分もそうなのだけど、後から、あれを選んだという事は、これを捨てたという事に気付いたりする。

決して全てではないけど、でも、大抵の行為は、沢山の選択の中から、他の全てを捨てて、それを選んでいる。

余りにも無自覚だし、無意識だから、それに気付かない事の方が多いけれども、その行為を選択する時にも、それを自覚する、それが無理でも、後からでも、それを自覚すると、迷いや後悔から少し解放されるように思う。出来れば、一つの行為を選ぶ時に、それを十二分に自覚している事が一番望ましいだろう。

一つの道を選んだ時、その道の風景も同時に選んだという事だ。それなのに、一つの道を選びながら、他の道を選ばなければ見られなかった風景を見る事を望んだり、その風景がない事に不満を持ったりする事が、余りにも多いように思う。海岸を歩きながら、山の頂上からの眺めもという訳には行かない。そんな当り前の事が、人生では忘れられがちだ。山の上から海が眺められたら、大いに幸運と思うべきだろう。

一つを選ぶという事は、殆どの場合、他の全てを捨てるという事だ。他のに付いてくる風景を見る事をあきらめるという事だ。その自覚がきちんとあるか、ないかで、人生、大分違ってくる気がする。

あれもこれもと欲張らない事。自分の選んだものに責任を持つ事。一度選んだら変えるなという事ではない。だが、たとえ、その選択を覆えして進む場合でも、選んだ責任と選ぶ責任を自覚している事。それは一度しかない人生を生きるには、大事な態度のような気がする。
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by bp2004 | 2005-05-16 05:05 | In my opinion

3 好きなもの

私は人に好かれようとは思わないようにしているけど、いろいろのものを好きになろうとはしている。

それはただひとえに、好きなものが多い方が人生が楽しいし、好きな人が多い方が人生は楽しいからだ。人を好きになる為には、理解が必要だ。その人がそのままの人か、取り繕っていないかは重要なポイントになるけど、あとはわがままであれ、勝手であれ、そう気にならないで好きになれる。大好きになるには、それに真摯さ、謙虚さが加わるけど。

人はともかく、ものを好きになる事。これは人生で好きなものを沢山作った方が勝ちのような気がする。あるいは何か一つとことん、ご飯も忘れて好きになるかのどちらか、、。

私は食べるのが好きなので、一つをとことんはあきらめて、たくさんの方を目指している。

子供の頃は嫌いだったのに、好きになれたものーー絵、ハイキング。
数年前は嫌いだったのに、好きになれたものーーゴルフと大相撲、NHK。
最近、好きになっているものーー冬ソナ。

お蔭で、楽しい時間は多くなっている。今は、これは嫌というものは少なくなって来ていて、新しく楽しみを増やせないのが、ちと不満。嫌いという訳でもないけど、そろそろゲートボールあたりを始めようかな?アメリカでやっているの見た事ないんだけど、、。
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by bp2004 | 2005-05-12 05:36 | In my opinion

2 正しい人

アメリカに来たばかりの頃、こちらのテレビで圧倒的な人気と地位を誇っている黒人女性のキャスターの番組をよく見ていた。エミー賞の常連。自分でテレビ局も持って、ダントツの地位を誇っている。Oprah Winfreyという。彼女の地位は揺るぎないものだ。

その彼女が、その頃、自分の番組で、「以前は自分は正しい人であろうとしていた。相手を言い負かそうと頑張りすぎていた。ある日、人から、Do you want to be right , or to be loved?と聞かれて、目から鱗が落ちた。正しい人であるのにこだわるのはやめる事にした。愛される事を目指す事にした。それで、ずっと人間関係も良くなって、楽になれた。」と言っていた。

私もその頃、自分が正しいと思うと折れる事が出来ずに、いたずらに人間関係を悪くしていた。それで大いに納得した。自分をそう変えようと務めて来た。それ自体は今でも間違いだとは思っていない。必要な自己変革だったのだと思うし、それがあったから、多分謝れる人間になれたのだと思う。

ただ、その頃の私は、「自分が正しい、相手は間違っている」と思っていた。今はそうは思っていない。「自分はこれが正しいと今は思っている。でも、相手の方が正しいかもしれない。自分が見落としている観点があるかもしれない」と思っている。論争なり論議する時には、基本にこの姿勢がある。相手がきちんと説明して、自分が納得すれば、いつでも折れる用意がある。あくまでコミュニケーションを求めての意見表明だ。

自分が人より何かを分かっていると思う時、それは、他の人が見えているものが自分に見えていないからだけで、むしろ分かっていないのは、自分の方だと分かる経験を重ねて、私なりにそういう気持ちになれるようになった。自分が人より分かっている感じがする時は、一番慎重になれるようになった。

だから、人より分かっているという気持ちで自分の意見を言う事はない。自分のどこがおかしいか指摘してもらいたいという気持ち、それによって、自分も育ちたいという気持ちで、私は今、これが正しいと思っていますと言っているだけで、昔の自分の正しいと思う地点とは全然違う。人からは、その違いが分かりにくいと思うのだけど。

そういう観点から言えば、敵を作らない事を優先する為に、自分の思う所、自分の立場をはっきりさせないのは、どんなものかと思う。それを優先するばかりに、議論を避けるのはどんなものかなと思う。正しい人より楽しい人というのも、自分だけを正しいと思って、言い負かすことに固執するという意味なら、正しいと思うけど、楽しい人を自分の目標にするのはどんなものかと思う。

余り、信じてもらえないかもしれないけど、私も細かい意見の差にこだわることはない。一々、異論を述べている訳ではない。そういう意味では、そんなに正しい人にこだわろうとは思っていない。

それでも、正しい人より楽しい人とか、正しい人より愛される人にという論には落し穴があると思う。確かに、その方が軋轢も少なく、楽な生き方が出来る。どちらが正しかろうと、無駄で無意味な争いはしないのに越した事はない。細かい事、どうでも良い事で、自分の正しさにこだわるのは愚かで損な生き方である。

では、どういう落し穴があるか、

ひとつには、こう言っている人間自体、その方が正しいと思っているから言っている。だけど、それが人生の真実かと言えばそうじゃない。以前、「本末転倒」の記事で述べたように、自分にとっての真実を守る事の方が大事で、楽しい人とか愛される人とかは後にくるべき事だ、という考え方も生き方もありうる。択一の問題と思わない人だっている。

ゴッホをあの時も例に挙げたけど、彼が楽しい人、愛される人を目指していたら、あの芸術はなかった。何が自分にとって正しいのかという事を見失うべきでない。正しい人より楽しい人を目指すのが、その人らしい生き方ではないかも知れない。人それぞれの生き方は違う。これが正しい生き方というのは、基本的にない。この論は、そのつもりがなくても、これが正しい生き方と言ってしまっている。

楽で平和な生き方、愛される生き方である事は確かだが、それを全ての人間が第一義に目指している訳ではない。野茂や竜馬がそんな事を考えて生きてきたとは思えない。あの頃の世界に向かって、『独裁者』の映画を発表したチャップリンがそれを目指したとは思えない。あれはものすごくガッツの要る事だった。野茂だって、ものすごく叩かれた。竜馬は暗殺された。チャップリンはアメリカを追放された。

私は、言うべき時にはーあくまでも「言うべき時」に限る。滅多やたらにそれを相手に向かって発射することは良くない。ブログはひとりごとだから言っているけれど。ーきちんと、自分が正しいと思う事を言うべきであると思う。それが絶対の正しさだとさえ思わなければ良いので、そうして、相手の正しさにも耳を傾ければよいのだと思う。そうやって、初めて、人間のコミュニケーションは取れるのだと思う。

楽しい人、愛される人を優先したら、きちんとしたコミュニケーションは取りにくくなる。自分が本当に思う事を口に出せなくなる。

コミュニケーションは難しい。過程で問題も出てくる。そういう問題を避けるべきではないと思う。双方に真摯さと謙虚ささえあれば、必ず乗り越えられる問題である。勿論、真摯さと謙虚さがない相手とはこうは行かない。でも、そういう人を楽しませる義務も、そういう人に愛される必要も私は感じていない。そういう人と疎遠になるのは、むしろ望む所でさえある。友達は選ぶべきだ。数より質である。

私は自分が見えていないものに関しては、心を開いて受け止める覚悟は出来ている。真摯さも謙虚さもない人は、こちらが既に見えている事を持ち出してくる。見えていないという傲慢な思い込みから言ってくる。そういう時は、それは見えている上での事だと言わざるを得ない。私に見えていないものを見せて下さいと、言っているだけだ。

きちんとコミュニケーションを取れない、プライドばかり高い人間が、私が見えていないものを見せられずに逃げてしまって、私を嫌ったり、敵だと思っても、それはその人の問題で、私の問題ではない。私は最初から、見えていないものに対して、心を開いて来たのだから。勿論、見えないものというのは、本質論のレベルで、細かい事情、などという現象論のレベルではないけれど。

そういうコミュニケーションを目指して来て、私は真摯で謙虚な素敵な友人をたくさん得て来た。正しい人より楽しい人という選択の問題だと私は思っていない。それぞれの正しさを擦り合わせられる人、その過程を楽しめる人、その過程でも愛を維持できる人。お互いのそれぞれの正しさ、違いを認め合える人。その中から、本当の相手を理解し、本当に愛を持って付き合える人に巡り会う。それが私の理想だ。

勿論、これは私の生き方と密接に関連して出てくる事で、違う生き方を選ぶ人には正しくない。生き方は、その人が一番居心地よい生き方を選ぶべきだ。

正しい人より楽しい人という選択を好まない人間、それがその人らしい生き方でない場合には、この提言は正しくないというだけの事だ。それをこの提言をする立場がどこまで包括しているか、止揚出来ているか、この提出の仕方は疑問を感じてしまう。

誰にとっても正しいというような事は少ない。生き方の問題であれば余計そうだ。この提言には、自分自身がそれを正しい生き方だと思っている自覚が少し足りていないように、私には思える。その意味で、自分が正しい人間になっているという自覚が欠けている。そこが落し穴であると思う。

楽しい人より正しい人という生き方だって、それをその人が、その人らしい自分を生きる為に選ぶなら、そして、それに伴う全ての問題を引き受ける覚悟があるのなら、他からとやかく言う問題ではないと思う。

勿論、自分の正しさしか認めないという正しい人でない事、相手に自分の正しさを呑み込ませようという意味での正しい人でない事は不可欠だけど、相手が何を求めて正しさを主張しようとしているかを抜きに、正しい人より楽しい人を、などと言えない筈だ。

Dr. Lauraは正しい人である。楽しい人でもある。彼女がどれ位正しいかと言えば、つまらないレベルで正しさにこだわるな、just be politeとよくアドバイスする事からも分かる。でも、彼女はここぞという時は、それが相手が知るべき事、考えるべき事だったら、矛先をゆるめない。敵を増やすまいとか、楽しい人でいようというような発想からは、遠い所に居る。

私は自分の考えが正しいと固執する所には居ない。何か問題を抱えた時、相手が知るべき事、考えるべき角度について述べる。それを真摯に謙虚に提出出来たかどうか、までが問題で、そこから先の真摯に謙虚に検討できるかどうかは向こうの問題である。私が見えていないものを向こうが提示出来た時、私の問題として、見直す必要が出てくるけれど。

そういうコミュニケーションを求めていない人と、付き合うのは時間の無駄なので、向こうが私を敵とみなしても、それは私の問題になった事はないし、現にない。こちらが真摯で謙虚であるかぎり、新しい味方がいつも増えて来ていたから、、。敵か友かは問題ではないと思う。どういう敵か友か、質の問題だ。
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by bp2004 | 2005-05-12 03:29 | In my opinion

4 国際感覚

日本も昔のように単一民族の国ではなくなって来た。外国人を見てもそう驚きもしない。昔ほど、じろじろと見る事も減った。それでも、日本から帰って来たアメリカ人は、見られて困ったと言うけど、昔に比べれば、何でもない。

世界も狭くなった。交流も多い。海外で暮らす日本人も多い。日本で暮らす外国人も多い。アジアの中でも、もう日本は、図抜けた国ではない。日本を見習い、日本に追い付き、追い越せを目指している、などと語るアジアの人に、今は会う事もない。25年前はそういう人に結構会った。熱い眼で、日本を尊敬している、見習いたいというアジアの人が、、。 今は私の知る限り、全く居ない。

もう自分の分野では、追い越しているという感覚を持ったアジアの人も少なくない。まだ、日本ではこんな事やっていると言われたりする。25年前とは大違いだ。まだ追い越してはいないと思っていても、もう時間の問題と思っている国の人も少なくない。日本の時代遅れの思い上がりを、笑っているアジアの人も少なくない。

いやがおうでも、国際感覚は必要である。もう待ったの効かない状況になっている。大分前からそれは言われている。そういう時に、必ず出てくるのが英語教育の問題である。私はこれは間違っているアプローチだと思う。勿論、英語は大事で無視出来ない問題ではある。でも、極端な話、翻訳ソフトも出て来ている。その内、通訳ロボットも普及するかも知れない。

個人が英語を勉強する事は良い事であるけど、極論すると、国際感覚と英語は無縁のものである。無縁でなくても次元の違うものである。国際感覚を養わなければという時に、英語をどうするかという問題に行ってしまう限り、日本は、国際感覚を身に付ける事からどんどん遅れて、どんどん離れて行ってしまうように思う。

私が思うには、国際感覚で一番大事な事はオープン・マインドである。それと同じ位、大事な事は日本としての独自性である。日本の文化、日本の精神の独自性をきちんと持つ事。そして伝えられる事。この二つが日本人が国際人として立つ為には、絶対に不可欠で、緊急に必要なものだ。

英語は極端な話、無くても良い。あるに越した事はないが、という程度の事だ。

世界の人が、日本人としてのあなたはどう思うか、日本文化を背負ったあなたはどう感じるか、日本人の知恵ではどうするか、日本人としての独自な物の見方からはどうなるのか、そういう事を通訳を雇って、向こうから訊きに来る位のレベルになった時、初めて、日本は国際的になったと言えるのだと思う。

英語は話せても、日本を語れなければ、国際人ではない。日本の文化、日本の考え方について語れなければ、ただの根無し草である。英語が出来なくても、日本の独自性をきちんと話せるのが、真の国際人だと思う。日本に居ながら、そういう根なし草になっている若者が多い。子供の頃から英語教育なんて言っている場合ではない。日本人にすらなれていないものが、国際人になれる訳がない。

子供に今教えるべきことは、英語ではない。何でも良い。日本独特の考え方を背景に、バックボーンに持ったもの。そういうものを一つでも良いから身に付けさせる。全てでなくて良い。何でも良いから、柔道なり歌舞伎なり、華道なり、茶道なり、和弓なり、尺八なり、何かを外国の人に語れる位、身に付けさせる事だ。

日本史でもよい。日本の地理でもよい。別にお稽古事でなくても良い。和歌でも俳句でも良い。日本の独自性を理解させる事だ。日本全国を旅行しても良い。日本の世界遺産を全部調べて語るのでもよい。日本全国を自転車で回るとか、そういうものでも良い。

あらゆる角度からでなくて良い。一つの角度で良いから、日本の独自性について語れるものを持つ事だ。武蔵でも、信長でも良い。徹底的に日本の本質に迫る位、語れるものを持つ事だ。そういうもの一つを確実に子供に持たせる事の方が、英語の発音なんかよりはるかに大事である。語るものを持たずに、いくら発音が良くても、空しいだけだ。

後先になるが、オープン・マインドで、こだわりなく、白紙で相手の文化に触れ、相手の考え方を知ろうとする。まず謙虚に受け止める、そういう姿勢もすごく大事になってくる。日本の常識、感覚からどう違おうと、白紙で、謙虚にまず受け止める。そういう態度がものすごく重要だ。

相手が何を考え、感じているのか、虚心で、正確に理解しようとする態度を持たない限り、相手にもそういう態度で受け止めてもらえない。相手にしてもらえない。日本人同士でだって、そういう態度を持てるように、お互いを訓練して行くべきだ。付け焼き刃では間に合わない。日頃が大事だ。日本の中に居る限り、そういう感覚を持たなくても良い時代は、もう終ったのである。

何であれ、決め付けない。結論を急いで出さない。まず知ろうとする態度。受け入れられるか、られないか、などという事は一番後に、考えればよい事だ。とにかく、心を開いて、違うものを受け止める。どこがどう違うのか、何故違うのか、それはどういう意味を持つのか、その意図はどこにあるのか、その背景には何があるのか、その展望には何が見えているのか、何故そうなのか、云々。とにかく、完全に相手をとことん理解するまで、まず心を開いて受け止める姿勢。それが必要だ。それのない日本人が多すぎる。
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by bp2004 | 2005-05-09 04:51 | In my opinion

4 意見

人が百人居れば、意見は百ある。あって然るべきである。日本は同一性の強い社会だから、そうはならないのかも知れないけど、そこが日本の問題だと思う。

意見は百あって、どれが正しいとか、間違っているとかいうものではない。現実の前では無力な意見、無力な解決しか出てこない意見という差はある。でも、そもそも解決を全ての人が望む訳ではない。全ての人が、現実と向き合いたい訳ではない。だから、百の全ての意見は正しい。

続き
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by bp2004 | 2005-05-04 11:56 | In my opinion

6 分かりたくない時

真実と共にある時、人は力を持つ。真実に逆らっては何ごともなし得ない。それが本当に分かっていれば、虚偽に基づいたものを、怖れる事はないのだという覚悟も、出来る。それを信じ切れないとすれば、その人は真実に自分を賭けた事も、虚構に自分を賭けた事もないからだろう。どちらも避けて、中途半端に逃げてきたからだろう。

人生の局面に於いて、人が何かを分からない時、二つの場合がある。一つは理解を超える場合だが、これは滅多にない。大抵の場合は理解したくない場合である。そもそも分かりたくないのである。

何故分かりたくないのか。

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by bp2004 | 2005-05-03 13:01 | In my opinion

3 イイトコ取りの人生

人がそれぞれの人生に求めるものは、同じようでいて、違う部分も大きい。

同じものを求めて生きている人とは、共感する度合は強いが、全然違うものを求めているからと言って、それ自体で批判や軽蔑の対象になるべきではない。人はそれぞれ自分の求めているものを、好きなように追求する権利がある。それによって、その人らしさが守られる。実現される。むしろ貫徹されるべき事でさえある。

求めているものが、私のそれと全く違うからと言って、それを批判するというのは私の立場ではない。だが、残念ながら時々、そう受け取る人が居る。そうではない。求めているものの批判ではなく、求める時の姿勢に対して批判的なだけだ。

あるものを選んだら、有難くない部分も当然付いてくる。何かを選ぶという事は、その有難くない部分も見越して、それを引き受けるという事だ。具体的に見越せないにしたって、その覚悟は持っているべきだ。

どんないい事だって、イイトコばかりではない。そんなのが例えあったとしても、いずれはそれ故に、それを嫉妬する人間も出てきて、その攻撃に晒される。

いいことだけで終ることなんて、この世にはない。何かを失わずに得られるものはない。それを見越さずに、いざ、その有難くないものが、目の前に現われると、オロオロしたり、ガタガタ騒いだりは愚かしい。それを求めているのなら、胆を据えるより他ない。

どんな事にも、有難くない事は付いてくる。それを見越して、そこまで引き受ける覚悟を決めて、求めて行く姿勢でなければ、その人はただのイイトコ取り人生を望んでいるだけだ。何かを選ぶ時には、イイトコ取りばかりで行く訳がないという覚悟は、当然出来ているべきだと言いたいのである。
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by bp2004 | 2005-05-03 06:52 | In my opinion

5 ブログの喜び

それは分かち合う喜びだと思う。人間の基本的想いを分かち合う。趣味の世界を分かち合う。感動を分かち合う。知識を分かち合う。笑いを分かち合う。何を分かち合うかは、それぞれの人によって、テーマが違うのだろうけど、分かち合う事が基本であるように思う。

続き
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by bp2004 | 2005-04-23 15:52 | In my opinion

4 本末転倒

人は一人で生きていけない。人との絆は大事である。人と仲良くやって行く事、人を大事にする事は、生きて行く上でとても大事である。これに異議を唱える人は居ないだろう。

しかし、、
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by bp2004 | 2005-04-21 06:52 | In my opinion