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by bp2004

3 アメリカの職業倫理規定

正確に具体的全てを知っている訳ではない。聞きかじりとかテレビ等の知識に少し毛が生えている程度。ただ、結構厳しいものがあるとは知っている。手近な所で恋愛を例にとってみたい。



例えば、大学の教授は自分の大学の学生と恋愛関係になってはいけない。直ちに首になる。精神科医が患者と恋愛関係になるのもいけない。オフィスによっては、職場恋愛を禁止していて、やめなければならない所もある。恋愛は良いけど、結婚したら、片方はやめなくてはいけないという話を聞いた事もある。職場恋愛、職場結婚までというのは、自由の国のイメージからすると驚きではないだろうか。勿論、一部の事だが。

アメリカはプロフェッショナリズムに厳しい国である。だから倫理規定も厳しい。

日本では大学の教授と学生の恋愛もよく聞く話だ。今どき、職場恋愛禁止というような話は殆ど聞かない。精神科医の歴史が浅いせいだろうか、けじめのない精神科医の話も聞く。アメリカは自由の国と思われているけど、倫理をきちんと踏まえた上での自由だ。

勿論、どれだけ守られているかは別の問題だけど、そういう事で資格を失ったというような話はよく聞く。職場恋愛、職場結婚位は節度を保てば許される気がするが、全般的に日本では野放しのように感じる。恋愛は個人の自由という事で、不可侵の領域になってしまっているのではないだろうか。

きちんとそれぞれに厳密かつ具体的職業倫理規定があるのだろうか。あっても無きに等しい状態なのだろうか。危惧を感じざるを得ない。倫理に厳しい国だった筈なのに、今、日本はアメリカより遥かに下の国になってしまったのかもしれない。自由が履き違えられている感じがする。倫理なき自由は危険だ。

精神科医というのは心のプロである。だからこそ、これが最も厳しい形で求められる。恋愛に限らず、個人的な関係全てが良くない。冷静で感情に溺れない第三者に徹する事が絶対に必要だ。このプロ意識が欠如した場合、患者の病んだ心に与える影響の大きさが計り知れないからである。取り返しのつかない事態にもなりかねない。

患者の心に個人的に入り込んでしまっても、それ程問題が起きない他の科の医者とは、そこが根本的に異なる。単なる道徳の問題ではない。治療そのものが歪んでしまう。心そのものが治療対象であるのだから、患者の心と適正な距離を守る、プロとしての距離を保つというのが決定的に重要である。それも守れない医者には主治医である資格はない。

心に問題を抱えている患者というものは、心的距離をどう取るかという所でも既に問題を持っている。自他の分離が正常に出来ない。従って、自他の問題の分離もうまく出来ない。だから、これは全面的にそれを治療すべきプロ側の責任である。患者にあろうことか、自分の問題を話すなどというのは、その危険性を考えれば悪質でさえある。
 
精神科医と患者というのは、他の誰にも話さないような事を話し、それを受け止めてもらえる。患者はそもそも非常に不安定な精神的状態であるから、すがるものを求めている。従って簡単に、そういう個人的に特別な人として見るようになってしまう。

しかし、精神科医は患者にとって個人的に良い人であるよりも、先ず優れたプロである事が求められる。個人的に親しい関係であるというような事は全く不要であるのみならず、むしろ有害である。外科医がいかに心を許せる親しい人でも、外科技術が最低基準を満たさなかったら、医者としては失格であるのと全く同じだ。

一般的に、職業的関係を越えた、人と人としての人間関係は良いこととされる。それで、患者にとってはむしろ良い事と錯覚されてしまう。しかし、プロならば、これが精神科の治療に於いては、患者に一時的快感を与えるだけで、長期的には如何に危険で、如何に逸脱したことかよく分かっている筈である。こんな初歩を分かっていないとしたら、或いは気付かぬ振りをしているとしたら、それだけで既にプロ失格である。それだけで主治医を降りるべきである。

これに納得できない人は、他の科で不倫はともかく、恋愛ご発度というのはあまり聞かないのは何故か、と逆に考えてみたらどうだろう。道徳の問題ではない。治療上の問題だからである。恋愛が問題になるのは、それが最も濃密な個人的関係だからである。

患者にプロフェッショナルな関係であるという認識をきちんと持たせるのは、治療の第一歩であり、逸脱してはならない一歩である。それを徹底させるのは、全面的に精神科医の方の責任である。患者から個人的な受け止めを求められたり、個人的な行動を求められたら、毅然としてそれを退け、健全な精神科医と患者の関係に導いていかなければならない責任がある。それは重要な治療の一部である。

患者はすがりたい不安定な状態に居る。それをコントロールする責任は、全面的に120%、プロとしての精神科医の方にある。そこで患者の求めに応じてしまうような事は、どのような個人的レベルであったとしても許されるものではない。治療放棄と言われても仕方ない。更にそれを助長するような行為は、患者の精神状態の弱さにつけこんだ行為として、アメリカでは厳しく糾弾される。

心のプロである限り、そこは一線を引かなくてはいけない。患者の心や個人的人間関係の外に居て、外からプロとして冷静に見なくてはいけない。患者の心にプロとしてでなく、個人的に入り込むことは許されないことなのである。それがプロとしての倫理である。プロ側のけじめである。

患者の個人的人間関係の一部になってしまっては、もうプロとしての立脚点を失ってしまう。患者と一緒に揺れ動くような存在になっては非常に危険な治療になる。患者がどんなに揺れ動いても、冷静に安定した不動の存在でなければならない。患者の人間関係の一部になってしまっては、これが不可能になる。医師だって揺れ動く人間だからだ。

いったん、個人的な関係が確立してしまったら、プロとしてのけじめをつける為には、主治医は他の医者を紹介して、自分は一友人としての立場に引き下がるべきなのである。そのままズルズルと主治医に留まり、かつ個人的な行動をしてしまうような、けじめのない医師に、私は一片の尊敬も同情も感じない。義憤を感じるのみだ。

医者がそのけじめをつけない場合、患者が本気で全快を祈るならば、絆が断たれるようで一時的には辛くても、自分から医者を変えるべきである。それは現在の治療が、名ばかりの危険な、実質的な治療放棄のものであるからで、患者はそれから自分を守る権利があるからである。真に人と人との関係が出来ていれば、医者と患者の関係は終っても、信頼を寄せる人間関係は残る筈であるから、それで絆が失われるとしたら、そもそも本物の信頼関係でさえない。

そういう医師から免許を取り上げるアメリカの倫理規定は、患者保護という意味で全く正当なものだと思う。日本では野放しになっている印象を受ける。患者の守秘義務も実にいいかげんだと聞く。患者の保護という自覚がどこまであるのか?医者がプロとしての自覚に欠けた時、その及ぼす害は計り知れない。
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by bp2004 | 2005-02-28 04:56 | 日米雑記